神の残酷さ
神様というのは、どのようにして我々に愛というものを伝えようとしているのか。
時に柔らかく、 時に残酷に
しかし明確に表してくださっていると思う。
肉の我々には到底、その時には思いもしないが、過ぎ去ってみてやっとわかる
ということがかなりある。
斎藤宗次郎というキリスト者は、多くの迫害に遭い、しまいには9つの娘が
迫害の為、お腹を蹴られ死んでしまう。
その娘も神様を信じており、息を引きとるまで讃美歌をお願いし、穏やかに神の愛の元へ行った。
その娘の死があってから、迫害がピタリと止まり、理解をされ、尊敬されるまでになった。
一見、むごたらしいことなのである。実際そうだと思う。
イエス様が「イエスを愛することで生きづらくなる」と言っているのは間違いではない。なぜなら、この世は悪魔が支配しているから。
神に仕えるものが悪魔が排除していこうと思うのは当たり前であり、そんなこの世において神は聖すぎるので、悪魔支配のもとにいる人間には、なんともいじめたくなる存在なのだろう。
神の愛と悪魔の自己愛の中で私たちは彷徨う。
その中から少しでも自分の愛の国へ来てほしいという御心から
そのようなご計画が成される。
しかしどうだろうか。ただただ美しく、綺麗な、真っ新な人がいたり、そんなことがあるというだけでは人は決して光を見出さない。
とんでもなく残酷なほどの暗闇や衝撃がないと、そこから光が生まれない。
愛という矢があるとすると、マイナスへ思い切り引っ張るほど、光へ勢いよく飛ぶように、衝撃が必要なのである。
神様がイエス様をお遣わしになり、あの残酷な磔刑を人々にみせたのも、おそらくそういうことなのである。
なんというお恵みなのだろうか。
貴方がたの愛というものは我々肉の人間には分らないほどの胸を抉られるような
凄まじい愛なのです。
アーメン