AtoZ’s blog

既成の地球を捨てよ

現在終末進行中

この偽パンデミックは、まだ1年半しか経っていないのに

もう世界中で悪魔に操られ支配は支配を露わにして終末にむけて

どんどん進行しております。

 

箴言の中にまさしく今の世においてまさしくぴったりなみ言葉があります。

 

人を恐れると罠にかかる。

しかし、主に信頼する者は高いところにかくまわれる。

支配者の顔色をうかがう者は多い。

しかし、人をさばくのは主である。

不正を行う者は正しい人に忌み嫌われ、

行いの真っ直ぐな人は悪しき者に忌み嫌われる。

 

箴言29:25~27

 

テレビを見るのはもうやめなさい

TVは購買意欲を掻きたて、このような商品を買うことが勝利であり、

ステータスを高めると言い、

食べることばかりを見せ、浅ましく貪り喰らうことを良しとし、

ワイドショーでは自分となんら関係のない有名人だかのニュースを見せて

人をこき下ろし、見下すことで満たされることに慣れさせ、

不道徳で不貞なドラマを見せてこれが人の生き方であり、普通であると、恋愛至上主義・肉欲至上主義を増産し、

不安なニュースで人を信用できなくさせ、扉を固く閉じさせ、分断させられる。

そして孤独な人間が生み出され犯罪がはびこりやすくさせられている。

人の無意識に入り込み、罪を美や文化と錯覚させるサタン・悪霊のやり口は実に巧妙である。

もういい加減、テレビなどで時間を費やすなどという愚かなことはやめたほうがいい。

もう終末であり、は盗人のようにいらっしゃるのだから。

祈り 4th May 2021

 

神よ、ありがとうございます。

主よ、感謝致します。

エス様の愛ほど美しいものはありません

エス様の愛ほど大きなものはありません

エス様の愛ほど真実なものはありません…

今までいろんなことを克服してきたと思っていました。

いろんなことをくぐりぬけてきたのは私なのだと。

しかし違っておりました。

いつも神が、主がそばにいてくださったからです。

いつも、私が引き返すことが出来ないほどのところまで行かぬよう、

愚かしいことから出来るだけ避けられるよう、

出来るだけ私に利になるように、心がけてくださったからです。

私などが一人で生きることはできません。

 

それから、今日、今、お祈りしていて気が付いたことがあります。

わたくしの名前は水にちなみ、美しい川の名前を肉の父からあたえられました。

肉の父を通して美しい名をいただけたことを心から喜んでおります。

心から感謝致します。

 

 

 

 

神の残酷さ

神様というのは、どのようにして我々に愛というものを伝えようとしているのか。

時に柔らかく、 時に残酷に

しかし明確に表してくださっていると思う。

肉の我々には到底、その時には思いもしないが、過ぎ去ってみてやっとわかる

ということがかなりある。

 

斎藤宗次郎というキリスト者は、多くの迫害に遭い、しまいには9つの娘が

迫害の為、お腹を蹴られ死んでしまう。

その娘も神様を信じており、息を引きとるまで讃美歌をお願いし、穏やかに神の愛の元へ行った。

 

その娘の死があってから、迫害がピタリと止まり、理解をされ、尊敬されるまでになった。

 

一見、むごたらしいことなのである。実際そうだと思う。

エス様が「イエスを愛することで生きづらくなる」と言っているのは間違いではない。なぜなら、この世は悪魔が支配しているから。

神に仕えるものが悪魔が排除していこうと思うのは当たり前であり、そんなこの世において神は聖すぎるので、悪魔支配のもとにいる人間には、なんともいじめたくなる存在なのだろう。

 

神の愛と悪魔の自己愛の中で私たちは彷徨う。

その中から少しでも自分の愛の国へ来てほしいという御心から

そのようなご計画が成される。

 

しかしどうだろうか。ただただ美しく、綺麗な、真っ新な人がいたり、そんなことがあるというだけでは人は決して光を見出さない。

 

とんでもなく残酷なほどの暗闇や衝撃がないと、そこから光が生まれない。

愛という矢があるとすると、マイナスへ思い切り引っ張るほど、光へ勢いよく飛ぶように、衝撃が必要なのである。

 

神様がイエス様をお遣わしになり、あの残酷な磔刑を人々にみせたのも、おそらくそういうことなのである。

なんというお恵みなのだろうか。

 

貴方がたの愛というものは我々肉の人間には分らないほどの胸を抉られるような

凄まじい愛なのです。

 

アーメン

 

人間の信仰の限界

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。マルコ14:38

 

私は「肉体は弱い」というのは、「情熱をもってしても人間は結局弱い」と解釈できると思いました。 

 

 あれだけ、長きに渡って信仰している牧師様や信者の方々が、

 

携挙ありきで信仰をしていることに気が付かない。

 

大艱難の前に携挙されると言っている人は、

 

そのとき,弟子たちはみな,イエスを見捨てて,逃げてしまった。マタイ26:56

 

すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。マルコ14:50

 

この時の弟子たちとなにが違うというのだ。

 

まだ時が来てもいないうちから、すでに救われる言い訳を作っている。

 

 

 

 

 

 

 

携挙説に違和感

携挙ってあるんですね。

 

携挙って不可能じゃない!?

 

神様の作られたこの3次元の肉を持った身体のまま、上に上がったりできないですよ。

 

エス様だって、わざわざ母体に入って肉の身体を持って現れてくださいましたでしょう?

 

選ばれしクリスチャンは、7年間の大艱難の前に、携挙されるって…

 

それを唱えているクリスチャンは、おそらく自信満々なんでしょうが

 

いきなり逃げ腰でビックリしております。

 

携挙後の大艱難でのクリスチャン絞り出し計画というのは、まあ恐ろしい恐ろしいことで、どうサバイバルしていくか、死は恐くない!などとレクチャーしており、

残された人やダメ・クリスチャンは斬首されなければ狭き門に入れないと言っているのです…(呆)

 

 

オウム真理教のことなどまったく言えないカルト牧師だと、正直心から思いました ね。

 

 

 

主、イエス・キリストの望む愛とは

 エスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」 ヨハネ20:29

 

この言葉はずっとひっかかっていた。

どうして見ずに…なんだろうか、と。なぜそこにこだわられる?

 

これは今日はっと思ったのだが、

見えないものを信じることとは、それこそ至上の愛であり、究極の無償の愛であり、無無条件の愛であり、無邪気な愛である

 

そんな真っ白な愛、強い心で神の王国を御造りになっているのだろう。